サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

トラブル転じて点稼ぎ

事務所の近くで事故があった。わたしは怖いから遠巻きに見て見ぬふりでやり過ごそうと思ったのだが、他のメンバーががっつり助けに行ったので、渋々と、ワンピースでいうとウソップくらいのテンションでわたしも人助けに一枚噛むことになってしまった。トホホ。

 

幸い、重篤な怪我人は出ずに済んだのだが、車両の被害が著しく、あわや炎上となるところであった。

そういう状況で、人助けに走れる人はすごいなあと思うのだが、今回いの一番に走ったのは普段から多動気味でわりと非定型発達グレーゾーンだなぁと思って見ていた人だったので、臆病な自分とその人を比べて自己卑下することに意味はないのかなと思った。

わたしはわたしが気付いたことをやればいいやと、自己当事者たちに上着をかけたり温かい飲み物を配ったり、所謂「女性的」なケアに徹したのだが、まあ、それでいいや。わたしの中の女子と少し和解した。

 

さて、公共工事では地域貢献という評価項目がある。顧客評価を稼ぐという意味で今回の人助けはかなり好印象だろうということで、早速ぽんち絵にまとめ、仲間の武勇を報告書にまとめた。

俯瞰で見ていたからこそ、こういう報告書の文言がすらすら出てくるもので、それもわたしの役割の一つだと思った。因みに、ちゃっかり状況写真を撮っていたのは、件の走り出しっぺの人だった。彼はやはりどこか頭のネジがとんでいる。

 

そういえばむかし、仕事上のトラブル発生時、当時の上司に言われたのは「なんでお前はそんな冷静なんだ」ということだったが、出来事とそれを見ている自分とが切り離されるような感覚がしばしばある。「何でも他人事のように話す」とも言われた。虐待サバイバーの解離症状ですと説明すればそうなんだけれど、負の遺産とはいえ、これは業務上とても役に立つので結構気に入っている。虐待のサバイブ能力と仕事上のスキルはわりと近いものがあってやりきれない。

 

それにしても、事故を起こしてしまった方が茫然自失で青白く固まっていたのが、目に焼き付いて気分が悪い。多くの人にとって加害者であることはとても辛いことなのだ。

しかし、多かれ少なかれ、故意でも過失でもわたしたちが誰かに何かに害を及ぼさず生きるのは非常に困難である。

その加害性に自覚的なぶん、わたしは善人よりは偽悪的な人物の方がまだ安心する。

最近のインターネットは無敵の善人が多すぎて窮屈だ。

暮らす力がありあまる

故あってレオパレスに4ヶ月暮らすことになった。只今、3週目。

レオパレスは4年ぶり2度目なのだが、前回は短期間ということもあり、かなりミニマルな暮らしをしていた。まず調理はしない前提で道具を持って行かなかった。DVDプレイヤーやお気に入りの装飾品もいっさい持たず、ほぼ洋服と洗面用具のみをダンボール2箱に詰め、極めて身軽な生活を送った。

その結果何が起こったかというと、激しく苦しいホームシックである。

やはり、食と住を蔑ろにしては、人間らしい生活はできないのだ。

 

前回の反省を生かし、沢山のダンボールにぎゅうぎゅう詰め込んだ名画の絵ハガキコレクション、猫のぬいぐるみ、羽毛のクッション、ラッセルホブスの電気ケトル、マリクレールのホーロー鍋、しゃべるロボット掃除機、PerfumeのライブDVD、無印良品のアロマディフューザー。それらが無くてもわたしは息をして脈をうって生きていけるけど、屋根と壁があればそれを家と呼ぶならば、わたしの仕事も生活もどんなに味気ないものになってしまうだろう。医者の不養生とはいうけれど、ものづくりをする人間が自分の身の回りのものに無頓着ではつまらない。

 

配線を隠すためのモールを壁に貼りながら、フローリングの廊下にタイルカーペットを敷きながら、そんなことを考えた。

ピカソの大きな顔、シャガールのパリの花嫁、モネのバラ色のボート、東山魁夷の白い馬、ダリの焼いたベーコン、あと3ヶ月半よろしくね。

雨が降ったら寝てしまう

土砂降りの幕を下ろして、夏はおもむろに終演をむかえた。カーテンコールも無しに。

 

これから一枚ずつ身に纏う布を増やしながら、雪が降るまでの時期を縮こまって過ごすのがこの街での作法だ。おびただしいほどの収穫物を欲望のまま貪り、脂肪をたっぷり蓄えるのも忘れてはならない。

 

 キリギリスの声が呼んだ雨が降るたび空の色も街の装いも黄味を増し、今年の夏は何したっけか?なんて隣人と話しながら出来なかった色々に溜め息をつく。

キャンプも釣りも線香花火も、まだまだ足りない。宿題も絵日記も自由研究も終わらないまま大人になってしまった。

目をつぶったら、雨の音が全部かき消してくれる。今日はもう寝てしまおう。

明日目を覚ませば正しい自分になっている可能性だって、ゼロじゃない。

年に一度のお楽しみ

年に一度、3日間だけ、最高の贅沢をする。

野外フェスに行くのだ。

 

経済的にも精神的にも大人の女友達と連れだって、思い思いに音楽とキャンプとお酒を楽しむ。

暑くなれば木陰で休み、雨が降ればカッパをかぶる。雲の流れや星の瞬きを見上げ、虫たちの声に耳をすます。

美味しいご飯をお腹いっぱい食べ、足が棒になるまで歩き、腕がちぎれるほど手を振り、声が枯れるまで歓声を上げる。

ここでは何一つ我慢しなくていい。

太陽と月が追いかけっこをしながら、夢の様な時間が流れる。

 

パンクのスターは愛と平和を語り、ファンクの職人は命のこもった1音を鳴らし、テクノのDJは人を踊らす魔法をつかい、ポップのアイドルは狂信者を増やす。わたしたちはただ彼らの言葉に感動し、ハーモニーに涙を流し、ビートに身を委ね、魅力に溺れていればよい。

ただの生き物になるだけだ。

 

音楽のない人生を牛肉なしのスキヤキに例えたちょっと怖そうなおじさんがいたけれど、豚肉や鶏肉のスキヤキだってそりゃああるさ。

でも、わたしはどちらかといえば、年に一度、こってこてに霜が降った牛すきが食べたいのさ。出来れば辛口のお酒と一緒にね。

いやな事件は見たくない

いやな事件がテレビを賑わせ、色んな人が色んなことを言っている。

 

わたしは弱い人を踏み台にして生きていることに多少の罪悪感を持っている。いやな仕事を他人に押しつけて見ないふりをすることだってあるし、好きな仕事だけをして楽して生きている申し訳なさを感じることもしばしばある。強者の罪悪感だ。

 

一方、精神疾患にかかりやすく、同年代の平均よりは多く健康保険のお世話になっている。いつ働けなくなるかわからない不安を抱える弱者でもある。

 

わたしは被害者にもなるし、加害者にもなりうる。ハリネズミのジレンマを抱えながら、恐る恐る人と関わっている。ごく親しい人以外とは相手の性格や生活背景などに配慮し、共感ベースのやりとりを心掛けている。相手ありきだ。どうしても共感できない人からは、へんに好かれないようにしながらそっと離れる。それができるように、わたしは様々なしがらみから身軽である必要がある。それは身分の不安定さとトレードオフだ。

 

つまり安全な場所から、一人ひとり違う他人にむけて、特定の立場で何かを言う資格がない。

テレビもネットも新聞も今は見たくない。

 

わたしは刺されないように強く生き、刺してしまわないように優しくありたい。自由でありたい。そうじゃない人の責任は取れない。

それだけなんだよ。

健康になるスパイラル

ポケモンでGOしてます。

職場が某観光地の目と鼻の先でして、昼休みは狩りに出かけ、木陰のベンチでランチです。それから徘徊、ポケモンゲット。

ゲームに飽きるまでの間にガシガシ歩いて、体力つけねば。きっかけは何でもいいから、身体を動かすのじゃ。色々の不調の原因は、長時間労働→運動不足→体調不良→能率低下→長時間労働のデススパイラル。

仕事はテキトーにして、ゲームするために早く帰る→いっぱい歩いてポケモン捕まえる→身体が疲れる→風呂入って寝る→早起きしてエクストリーム出社(ポケモン)→仕事はテキトーにして早く帰るという、健康スパイラルに入りつつある。活動的になれば何かのついでに掃除とか買い物とかも出来るし、汗をかけば洗濯物もためない。ゲームに夢中になれば間食も減る。

ゲームの開発理念の柱に健康増進があるのは間違いない。頭が良くて志が高い、本物の天才たちがチームになって開発したのだろうなあ。すごいなあ。

色々と問題を指摘するのは簡単だけれど、拡張現実は既に時代の大きな渦であり、ポイントオブノーリターンはとうに超えている。早くこの流れに乗り、マインドセットを未来に向けた者が幸せを掴める。

要は戦国時代が始まっている。中世のような力の時代でも、近代のような富の時代でもない。情報の戦国時代だ。優しく善い心と正しい行い、勇気と知恵によって人気を稼ぐ戦いがはじまるのだ。それは裏を返せば正しくない者がリンチに遭う息苦しい時代でもあるが、やがてリンチをした人間自身が己の評判を落としてしまうサバイバルでもある。

人類全体が賢く上品な生き物に進化しているのかもしれない。間抜けな正直者にとってこの流れは非常にたすかるが、混沌の時代を自分が生きることになろうとは、全然想像してなかったな。歴史を紐解けば、平和と混沌が交互にやってくるのはごくごく当たり前のことなんだけれどもね。諸行無常であるなあ。

だったら何か下さいよ

おまえは常に下から目線で弱いから経営者にはなれない。経営者はもっと自信に満ち溢れて上から目線な人間がなるものだ。そういう強さがなければ仕事はもらえないだろうから、サラリーマンを続けた方がいい。
という主旨のことを、ベテランサラリーマンにごくやんわりと言われた。

わたしは、不自由なサラリーマンでいるのが辛くて逃げ出したいから、自分で事業をやるしか道はないんだ。その希望を捨て、ただ我慢して残りの人生の過ごすくらいなら今すぐ死んだ方がましだ。霞を食って生きていけるなら話は別だけど。
という主旨の反論をしたら、分かり合えないということを分かってくれた。

望む望まざるに関わらず沢山の物を持って生まれた人は、失う怖さに打ち震える。何も持たずに旅に出ようとする愚か者に対し、多くの装備や強い仲間がないなら旅に出ない方がよいと、的確な助言をくれたのだ。

それに引き換え、わたしは目に見える物はほとんど持たず、丈夫な体と地図を一枚渡されて生まれた。側から見れば質素な持ち物かもしれないが、ここに来るまでにずいぶんと沢山のガラクタを得たり失ったりしてきたのだ。立ち止まれば、ただ野たれ死ぬ世界で。

あなたが飢えていれば、何か温かい食事を用意すると言ってくれる酔狂な人間も数人いる。わたしはその数人にしか食事を乞わない。
何故なら、この世は飢えている人間に毒入りの食べ物を差し出す人間がほとんどだからだ。

わたしを縛り付けようとすることを言う人は、自分自身が沢山のしがらみに縛られて身動きがとれないのだ。しかし、縛られていても手の届く範囲に沢山のものを持った人間が、何も持たない人間を縛り付けようとするのは自覚なき暴力だ。いかにわたしが何も持っておらず、うろうろしなければ何も得られず野たれ死ぬ状況であるか、根気強く説明する他ない。

多くを持ったおっさんが何も持たない年下の女に的確なアドバイスをできるようなことはほとんどないぜってこった。せいぜい金か知識かノウハウをくれ。今まで、見返りを求めずにそれらをくれたおっさんは3人だけだった。そして3人とも、経営に失敗した経験を持つおっさんだった。失敗して一度は多くの物を失っても、自分の大切な宝物を他人に気前よく差し出す心意気は、この世でも類稀なる美しいものではないか。

事業に成功しても幸せ、失敗しても気前のいいおばさんになれるなら幸せ、だったらやってみた方がいいに決まっている。