サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

気まぐれ腹ペコマキシマム

義務になると嫌になる現象について。

わたしは三度の飯より飯が好きな腹ペコ野郎なので、体重もかなりマキシマムです。
で、最近何が起きたかというと、病院で体重計に乗って恥ずかしかったのは通常営業なのですが、その後、食欲がないのです。
その原因が、病院での体重測定であればまだ可愛げもあろうが、残念ながらそうではない。

服薬だ。

ここで、察しの良い読者諸君は副作用に思い当たるのだろうがそうではない。そんな副作用、前回の治療時はなかった。むしろ再起不能なほどマキシマムになったのもその頃だ。

では一体何がそこまでわたしの強欲を削いでいるかというと、「義務感」これである。
薬を飲まなければならないので、食べなければならない。
食事は気ままな楽しみだったはずなのに、一変してわたしをたやすく発狂させる概念をまとい、煩わしいタスクとなってしまった。
わたしにとって食事とは「お腹が減ったぞ!何食べようかな〜うーん、今はうどんの気分!うどんで!!イエーイ!」という、1日2回のお楽しみタイムだったはずだ。期待と達成、ドーパミンがドバドバである。
それが今やストッキングを履くようなつまらないルーチンだ。なんか、健康に気を使って野菜ジュースを手に取る自分にもうんざりだ。
ああ、一刻も早く健常に戻って、餃子の後にプリンとか食べてウッヒョーってなりたい。
健康を損なうと好き勝手できないのがつらい。元気で自由に気まぐれに生きるのがこんなに難しいことだったとは。

そんなこんなで診断書

診断書がでた。
一か月は半日勤務とのこと。休みたいですか?という趣旨のことを聞かれたから、体は今すぐ休みたいけど長い目で見ると今はどうしても休めない事情を話し、でも朝はどうしてもつらいというふうに訴えたところ、こういう措置になった。希死念慮もいまのところないし、うつ病の診断とまではいかないだろうから、妥当なところだろう。
前回の通院歴が、断薬でないかどうか念を押された。ほんとに寛解したんですわたしは真面目な患者なんですよ安心して診てね。それだけ断薬する患者が多いということなのか。少なくとも素人の自分の判断よりもプロである医者の言うことの方が信ぴょう性あるだろうというのは、わたしも技術職で素人相手にいつも頭の痛い説得をしている経験が言わせるのか何なのか。プロを素直に信じるのはだいじなことだ。少なくとも、6年間ずっと一つの学問をやり通して試験に合格した人なんだからさ。

半日勤務……するかと言われればまあ、そんな余裕もないから何だかんだと8時間くらいはきっと働くと思うのだが、朝の遅刻の大義名分ができたのは安心感が大きい。また、みんな意外と心配して色々代わりにやってくれてるので助かる。
診断書があればまわりのみんなも納得してくれる、というか、せざるを得ないだろう。ただの怠けじゃないというお墨付きは大変ありがたい。世の中、理解のある立派な人だけじゃないから。それに、わたしは立派じゃない人とも付き合っていける人でありたい。とにかく「なんかわからんけど怠けてる人」と「持病を抱えながら働いてる人」じゃあ雲泥の差だ。
技術が発達して頭の中の鉛の重さが可視化されれば精神障害にたいする理解もすこし深まるのになあ。

前の時は即休業を言い渡されたが、今回は働きながら治すのがどうやら可能そうだ。よかったよかった。働きながらでも付き合える病気だということがわかれば、今後の再発に必要以上に怯えることもなく、わたしの将来はもっと明るいものになる。早期受診に関してはお医者さんも大きく頷いてくれた。
責任感が強いのは困ることもあるが、自分の美点であるとはっきりいえる。うまれてきた以上、何かよいことをして生きたい。よいこととは何かをもっと考えて議論して、伝えていきたい。そう望んでいる。
体を壊してまでする必要のある仕事なんてないという考えも聞くが、それは大事な人を救うための言葉であり、真実ではない。
壊れない体なんてないのだ。毎日、死に向かって着実に壊れていく体をなんとかなだめて治して不器用に使って、ここで何を為すのか。会社のためだけじゃなく、社会のため、世界のために必要なこと、誰かがやらなければならないことをやる人生が性に合っている。損してばかりだけど気分がいい。
若い頃の闇雲な責任感ではなく、視野の広い責任感でわたしはまず目の前の不安をなくすための前向きな取り組みをはじめた。
体も頭もいつか壊れる。でも、それらを使って命を燃やしていけばもっと奥底にあるわたし自身のかたまりはどんどん大きく賢く頑丈になってゆく。幸い、「納得」「合理的」「みんなで得する」のが原動力の使い勝手の良いエンジンを搭載している。おかげですぐに使える信頼貯金もたんまりある。ので、既にいろいろ介護してもらっている。まことにラッキーである。ありがとうありがとう!!

つまり、まわりの人たちは心配するだろうけど、わたしには使命があってそれをやらなければ死んでいるのと同じなのさ、ってことなのさ。なんのために生まれて、何をして喜ぶのか、分からないまま終わる、そんなのは嫌なのさ。

口に出しては言わないけどね。

システムトラブル発生中

心の健康維持は本当に難しい。

電子機器の場合、警報ラインはメインの線から分けて、メインシステムの不具合について独立した立場から観測させるようだ。(生業だが専門外なのでよくわからん)
しかし、人の心の場合は観測装置とメインシステムが不可分なので、「まだ大丈夫」が全く当てにならない。
おそらく身体的な不具合がその観測装置の役割を担っているのだが、壊れたメインシステムが容易にその異常値を改ざんしてしまう。
わたしもその改ざん機能に優れたシステムを搭載しているので、基本的にはずっと壊れたまま稼働している。もしかすると、元々ただ性能が悪いだけなのかもしれないが、それはもう第三者に判断してもらうしかない。

というわけで、システムメンテナンスをはじめました。
とりあえず内科を受診して器質的な不具合報告をしたら、やはりシステム上の不具合だろうからそっちのお医者さんにかかった方がよかろうとのこと。
症状を説明しているうちに、不具合の多さに自分でもびっくりした。
その後、システムを修復するタイプの専門科を直接訪ねて予約した。わりとケロッとして行ったので受け付けの方に間違って来院したのではと確認されたが、辛そうにして見せて相手に同情されたりとか、そういう情緒的なやりとりが面倒なので勘弁して下さい。
しかしこれでは詐病に見えたかもしれない。で、こういう妄想がシステムトラブル特有の症状ですよね。知ってる知ってる。
自分がおかしくなっているときの文章は、前回の大規模トラブルの時にはあまり残せなかったので、今回はなるべく残しておくようにしたい。コンテンツとしては、長く楽しめる類のものだと思うから。

そしてこういう他人事みたいな感覚も外圧に対する何かの適応機制なのか何なのか、自分ではわからないのだ。
ひとまず、わりと健やかな時の自分が決めた基本方針を実行するのが困難になってしまった以上、実行力を補強するか、方針を転換するか、その両方かだ。
現状を見ないのがいちばん非合理であり、即ち基本方針から逸脱する。
前回はここのところで、現実の否認をしてしまったためトラブルの規模が膨れ上がった。過去の反省を活かさないことは唾棄すべき怠惰である。そしてこの怠惰を許さない姿勢もまた、システムトラブルの賜物だ。わたしの中の(観念上の)ドイツ人が幅を利かせ、イタリア人が縮こまっている。見よこの堂々めぐり思考!一人大相撲春場所である。

元々のシステムの性能が悪いことがわかればその性能に合わせた運用をするし、一時的な不具合であれば復旧をする。そのための現実的な一歩をやっと踏み出す気が起きた。長かった。今回の一人太平洋戦争は原爆が落とされる前に耐え難きを耐え忍び難きを忍び、ポツダム宣言できた。その時おれの歴史が動いたのだ。


あやうくメインシステムからシステム停止を命令する信号が出るか、電気の供給が絶えてしまうところだった。

とりあえず、システム停止だけは避けたい。
まだまだ実装したい機能も供給したいサービスも沢山あるから。
それだけ伝えて、医者の言うとおりにしよう。あーでもドックには入りたくないなあ。泳ぐのやめたら死んじゃう!わーん!!

全体で何とかなればいんじゃない?

結局いやなことから逃げているだけなんでしょ?

そうです!その通りです!
嫌なことから逃げないと、簡単に人は死ぬんです。嫌なことから逃げないと、嫌だと思っていることに誰も気づかないんです。
だから私は弱音を吐きます。愚痴を言います。頼みごとをします。
そうしている人の方がみんなから構ってもらえる、愛してもらえることに気づいたんです。そんなはずはないと目をつぶっていたその事実と遂に向き合うことが出来たからです。
みんなほんとは、嫌なことをごまかして逃げようとしない、何となく嘘をまとった人と一緒にいるのは嫌だったんだと思います。
人の役にたつのは気持ちいいから、私は今までついつい独り占めしてきたけど、それはただの欲張りだったんです。私は私の担当ぶんだけ役に立って、担当外のことはみんなに任せます。
頑張るのは気持ちいいから、ついつい依存してしまうけど、身体の悲鳴を無視してはいけなかったんです。
私は嫌なことから逃げて、楽に役にたてることだけやって、みんなをちょっとだけ失望させて、どんどん馬鹿にされて、いっぱい面倒をみてもらう人になるんです。
みんなを脅かすような力はじゅうぶん身につけました。つぎは、やってほしいことを表現できる力を身につける番です。

サインコサインありがとう

モノを作る仕事をしている。
サインコサインを教わったおかげで飯が食えてるので、ご老人様方におかれましてはどうか今後も女性に理系教育を施していただきたい。

さて、モノを作る仕事は同時に、壊す仕事でもある。
これらは一見、相反することに思える。
でも、「壊れないモノ」を作るためには、何度も何度もあらゆる力を加え、頭の中で、紙の上に絵を描いて、計算でそれを壊す。
雪の重み、暴風、地震
鳥がぶつかるかもしれないし、工事中に作業員が踏むかもしれない。

壊して壊して、いちばんやさしい壊れ方をするモノをつくりだすのだ。
ぐにゃりと曲がって致命的な部分を守りながら壊れるモノだ。

こんにち、構造力学の研究はほんとうにすばらしく発展している。
コンピューターによるシミュレーションで、3次元的な解析が容易になったからだ。
最先端のモノだけではない。
数十年に一度の頻度で悲惨な破壊が訪れる国にあって公の機関が定期的に更新する構造設計の指針には現時点でいちばん人に優しいモノのつくり方が書いてある。
そこに書かれたことを念頭に、素直に材料を組み合わせれば、壊れにくくかつ、やさしく壊れるモノができあがる。
わたしを含む、数多の凡人がそのレシピをもとにモノを作る。

構造設計者はなにか神様に近づいてゆく存在なのだとわたしは思っている。
バベルの塔は裁きを受けたが、スカイツリーブルジュ・ハリファも今のところ無事だ。
高層建築を見るとついつい「バベってるね~罪深いね~」という感想が漏れる。

残念ながらわたしはバベってはおらず、竈の前で聖書を読みながら麦粥が炊けるのを待つようなちっぽけな市井の信徒である。
それでも、すこしでも自然の理にかなった、美しいモノがつくりたい。

美しいものをやさしく壊す想像をするのがわたしの仕事だ。
壊れないものなんてないから、せめて、やさしく。

先生なんて呼ばないで

どこに行ってもすぐ「先生」付けで呼ばれる。主に年上の男性からだ。
現在はそう呼ばれても仕方ない立場なのだが、若い時からそう呼ばれることが多い。

何故かはよく分かっている。態度がでかくて、説明が長いからだ。そして「先生」とはそれに対する忌避感のニュアンスが強いことも分かっている。
見解をはっきりと言い切るのは危ないことだ。世の中のほとんどの分別のある人間はその危なさをよく分かっていて、あえてその橋は渡らず、なにか意見を求められても、他人に話を振ったり、結論を濁したりする。大人の対応というやつだ。
残念なことに、わたしにはその能力が全く備わっておらず、「こうだと思います」、「それを判断するためにはこの情報が不足しています」、「わたしの立場ではこう言わざるを得ません」など、反射的に回答を出力してしまう。下請け根性というのも大いにあるが、基本的にはただの親切な間抜けだと自分では思っているのだが、必ずしもそう受け取ってもらえないことが多い。見方を変えればこれは勇気ある堂々とした態度にも受け取れるからだ。また、わたしの論理展開は一般的にわりと納得されやすいフレームを採用しているので、仕事などのいわゆる理屈が支配する場面では支持されやすい。感情が支配する、友達付き合いのような場面に関しては、惨憺たるものなのだが。

さて、全くの私見だが、わたしに先生と呼びかける男性は、自分が賢く強い存在でなければならないという強迫観念があるように思われる。そこで自分が守らなければならない(と思い込んでいる)、「年下の女性」の勇敢さを見せつけられると、いたたまれないような気持ちになるのではないだろうか。
わたしにも、もちろんいたたまれないシチュエーションはあるのでその気持ちはよく分かる。食の細い友達と食事をした時である。外食での一人前の量を食べきれず残してしまう友人を前に、不自然なほどガサツな女を演じてしまうのだ。これはわたしに「女性は少食で、痩せていなければならない」という強迫観念があるためだ。
なので、コンプレックスを刺激された時につい誤魔化してしまう行動としての「先生」呼びであることにいつしか思い至った。それからは、相手に直接こう伝えるようにした。
「ちょっとー!!やめてくださいよー!それは、不当にでかい態度をとる人を馬鹿にする呼び方ですからねー!」

こう言えばだいたい笑ってくれる。これは、わたしが「いわゆる女性」らしくない自分に対するコンプレックスを開示しているからだと分析する。目には目を、コンプレックスにはコンプレックスを。(間接的にでも)不用意に弱い部分を見せてしまった時は、誰しも平静ではいられない。そんな時にはやはりこちらの弱みも進んで見せていくのが人の情けだろう。なあに、その弱みが嘘や大げさでも、相手に「弱み」として認識されればいいのだ。その辺り、プロのハゲやデブやブスの人はとんでもなく強かで、かつ徳が高いのだと思う。彼らのスタンスを見習っていきたい。

わたしは自分なりの美しい生き方をしていたい。そうでなければすぐ死にたくなってしまうからだ。
そのためには、やはり、人間の弱さからくる不自然な言動に寄り添うことも必要だし、そのために自分の恥ずかしい部分と向き合う強さや勇気が不可欠である。嘘をうまく使いこなす知恵や演技力だって生きる力だ。

目指すはプロのおばさん。道のりは暗くて長いぜ。

二十歳のお酒のプレゼント

今週のお題「20歳」

 

20歳の誕生日は、当時付き合っていた人から「20年モノ」のワインをいただいたのが今でも忘れられない思い出です。

とだけいうと、なんだかバブル時代のイケイケギャルと不倫おじさんのようなエピソードですが、違います。

田舎の学生同士のイモ臭いお付き合いの話です。

なぜそんなことができたかというと、じつは、彼が旅行で立ち寄った甲府のワインショップでラベルに破損のあるB級品を買ってきてくれていたんですよね。それならば学生でも手が届きます。

彼のそのアイディアや行動力がすごく嬉しかったし、20歳のわたしの「中身が同じならラベルの破損なんて関係ねぇ!」というざっくばらんな性質をよくわかってくれているところも心地よかったです。

お酒の味なんてまだわからない二人がちょっと背伸びして飲んだワインの銘柄が何だったかは忘れてしまったけど、60歳くらいになっても「人生で飲んだ思い出のお酒ベスト5」にランクインするんじゃないかと思います。