サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

明けましておめでたいとはめでてえぜ

年内に色々書きたかったけど、バタバタしてるうちに年が明けてしまった。

昨年は細木数子の言うところの小殺界らしく、身体が弱って病院に通いまくった年だった。今年は数子的には達成の年らしいので、公私ともに仕上げができればいいですね。(てきとう)

わたしは占いを信じるタイプではないと周囲からは思われがちだがそうでもない。日常において、あらゆる選択肢について検討するのは面倒なので、自分に合っている占いや宗教のフレームワークに当てはめ、複雑な考えを省力化しているのだ。わたしは簡単なことは得意だが、難しいことは苦手である。フィジカルに見えるものを作るのは好きだが、目に見えないシステムや人間関係を構築するのは苦手だ。

 

そんなこんなで、今年はデカい契約を他人と締結する予定なのだが、周囲の思惑を調整するのに四苦八苦している。

まず、昭和一桁生まれは昭和式の通り一遍な型をナチュラルに当てはめてくる。その型はわたしには合わないということを説明しても無駄なので適当にやり過ごしてはいるが、何せ認知機能の闇に片足を踏み出さんとしている相手だ。こちらが黒に近いグレーの返事をしても、あちらは白を期待していれば「黒でない=白」と曲解する。わたしは、他人にがっかりさせる可能性がある場合はそれを伝えることを先延ばしせず最悪のパターンを先に伝えておきたい性分なので、「白でない」ことばかり強調して説明する羽目になった。老い先短いアラウンドナインティーの人間には酷だが、会うたびに白を期待して白でなかった生い立ちエピソードを聞かされている身としては、そうするより他ないのだ。

祝いと呪いは紙一重だ。わたしの喜びと他人の祝いは別のものなのだが、大抵の祝う側は自分の祝う気持ちとわたし自身の喜びの量に齟齬があるという想像をしない。その齟齬ばかり感じて、呪いに絡め取られそうになる。

そもそもこの契約の締結について、わたし自身が喜んでいるかと聞かれたら、正直いってよくわからない。契約無しに実だけ取れるのが一番だが様々な事情を鑑みれば契約するのが妥当だという選択はしてみたが、それに伴う周囲の思惑が重い。

 

そこでパートナーに「期待されるのが重い」と溢してみたら、「誰も期待なんてしてないよ」と返された。呪いなんてないということだ。わけがわからない。幽霊の正体見たり枯れ尾花ということなのか?

この思考のフレームを解析して自分にインストールすればきっともっと楽になるはずだ。一生かけて取り組んでいきたい事業である。

そうだ、自分の力では何も達成してないのに今から呑気に喜んでなんかいられるか。

そもそもおめでとうとはなんだろう。おめでとうと言われて嬉しかったことは受験や免許に合格したときくらいのものだ。

特定の日をもって年が明けましたことを祝うなら、毎日祝うのが筋だろう。地球の自転も公転もそれ自体は等価だ。

特定の契約の締結を祝うなら、借金の約束だってもしかすると祝われたってよいはずだ。

節目だとかけじめだとか、複雑なシステムは考えるほどによくわからない。

周囲にはよくわからない祝いの言葉より励ましの言葉をかけてくれと頼んでみるのも一つの手だ。