サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

魚肉で車輪の再発明

魚肉ソーセージを皆さんはどの程度の頻度でお召し上がりか。

わたしはもう3年近く食べていない。何故か。
それは、おつまみコーナーでの物色レースでピリ辛チーカマにいつも競り負けるからである。
呑んべえにとって「ピリ辛」「チーズ」「魚肉」は単体でも非常に破壊力のあるコンテンツであり、3C2=3通り、例えば「ピリ辛すり身」「さけるチーズとうがらし味」「チーズタラ」どの組み合わせもすばらしい。それもそのはず、ピリ辛はスパイス、チーズは脂肪、魚肉はアミノ酸、すべて人間の脳を白痴に陥れる麻薬ばかりだ。すなわちアルコールとの相性はシド&ナンシーであり、その先には破滅しかない。

しかし、思い出してほしい。いや、わたし自身こそが思い出すべきだ。魚肉ソーセージがおやつのホームラン選手だった子供時代を。オレンジ色の皮を開けやすくするためのアタッチメントシールなど貼られていなかった昭和の時代を。ちなみにあの皮は正式名称を「人工ケーシング」というらしい。ウィキペディアが人類の宝であることを思い知らない日はない。
あの金属の部分ごと口に含み、犬歯でケーシングを破ると、その反動で金属が硬口蓋に当たり、痛い。やっとの思いで、綴じ目に沿って皮をはぐと、今度は皮の内側に魚肉がへばり付き、悔しい。前歯でそれを削いで食べると「卑しい」「汚い」と母親になじられ、悲しい。魚肉ソーセージの思い出は美味しいばかりではなく、どこかほろ苦い。しかし、歯触りの柔らかさ、亜硝酸塩の添加された淡いピンク色、持ちやすさ、様々な面で子供が喜ぶツボをおさえている。また、前回の竹輪同様、費用対容積に優れたエコノミックフードである。正直なところを申し上げると、肉より好きだった。
ちなみに似た食べもので、獣肉寄りのボロニアソーセージや、塊のフィッシュバーガーなどもあるが、前者が我が家の食卓に上るのは平成に入ってから、後者に至っては成人後に他人の食卓でその存在を知った。

では魚肉ソーセージに復権はあり得るのか。大人になってしまった今、それに不可欠なのはずばり前述の脂肪とスパイスだ。問題はどのように添加するかである。加熱前の種をケーシングする際、中心部に芯としてチーズを挿入するのはおそらく難しいのであろう。チーカマのチーズもボロニアソーセージの脂肪も、ダイス状にされ、種に混ぜ込んである。
では、ここで逆転の発想をしてみよう。出来上がった魚肉ソーセージに衣をつけて揚げるのだ。そして、スパイシーな何かを添付する。ここはマスタードか何かにしてみようか。さらに人類の脳内麻薬を分泌させる第4の刺客、「糖分」を加える。トマトケチャップの出番だ。最後の仕上げに食べやすいよう、串に刺してみてはどうか。

最強の料理が誕生してしまった。
これは世紀の大発見であり、ブログなどに綴ってしまってよかったのか、甚だ悩ましいところである。