サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

産休クライシス

産休3日目。

この生活はすごく心の健康に良くない。警報信号がビービー鳴り響く。

 

家の中にはやらねばならないタスクがそこかしこに転がっていて、それを無視して出かける胆力も体力もない。

しぶしぶ取り掛かるも、整理整頓の能力が壊滅的なので、30分もやれば1時間はぐったりしてしまう。そして買い物した備品が毎日届く届く。もう少し広い家にすればよかったか、いや、夫の宝物(ガラクタ)をリストラしてもらうのが先決だ。物が多いのは疲れる。

比較的好きな家事である料理に逃げるも、お腹がつかえて流しに立つのも一苦労だ。しかも立っているうちに太ももが痺れてくる。はやく食洗機が来るといいのだが。

 

マタニティライフは素敵じゃない。不定愁訴が付きまとい、日をおうごとに出来ないことが一つ一つ増えていく。やりたいことが思い浮かんでも、次の瞬間に「あ、それはもう2年くらい出来ないんだった」と、思い直す。毎日、何度もだ。それでも今は女性ホルモンの影響で頭がすごく鈍くなっているので「まあしょうがないか」と思えるのだが、産後に元の性格に戻った時、果たして耐えられるのだろうか。鬱がひどい時、「あれもこれも出来なくなってしまった」という考えが次々に浮かんできて、それが一番辛かった。色んなことが出来る自分が好きだったのに、身ぐるみ剥がされてゆく心許なさだ。

今は、仕事人間の鎧がすっかり剥がされてしまい、まだ見慣れない名前や住所を病院や各種手続きの膨大な書類に書き込むたびに足元がグラグラする。わたしがわたしだった道のりのマイルストーンを見失いそうになる。

 

その里程標とはいったい何なのか。わたしは本当は知っているのだ。

時間を忘れて耽った漫画やゲーム、貧乏時代によく作った料理の味、何度も何度も読み返した友達からの手紙、コツコツ買い溜めた名画のポストカード、ふにゃふにゃになった旅先のパンフレット、そういったガラクタがきっと今の自分に必要なマイルストーンなんだ。

 

夫の宝物がわたしにはガラクタに見えるのは当然で、わたしの宝物だってガラクタだ。でも、ガラクタを集めながら生きていれば、いつでもわたしの連続性を見つけられる。「無駄なものに囲まれて暮らすのも幸せ」という槇原のフレーズがわたしは好きだ。

 

つまり、家は広いに限ると、そういうことである。