サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

隣の芝はドドメ色

他人の大変さを甘く見るな問題について。

 

他人の大変さを想像できることについて、わたしはそれを知性という能力の問題だと解釈している。
残念ながら、わたしはそれほど知性に溢れていない労働環境に置かれているため、しばしば周囲の人間の「自分ばかりがつらい思いをしている。他人は楽をしているのだから自分の要求はのまれて当然だ。」という主張に触れてうんざりする。
主張しないまでも、それは愚痴という態度で遠回しに表明されることがある。
面白いのは、妊娠を周囲に伝えてからというもの、めっきり他人から愚痴られる機会が減ったことだ。
これは結婚により「他の男の女」と認識されるようになったのも大きいが、妊娠というわかりやすい「大変さレベル」の上昇も要因の一つだろう。
わたしたちは物乞いのおばあさんや、がんの末期患者に愚痴ることはしない。若くて美しい人間や、ふくよかでニコニコ顔の人間、頼りがいのある人間を選んで愚痴を言うのだ。
だからこそ、本来弱い立場である子供や部下に寄りかかって愚痴る人間の、自己憐憫の深さは計り知れない。
かれらは溺れ死にそうなほどの大変さを抱えているのだ。それは痛みや疲労などの肉体的なものだったり、アイデンティティの危機だったり、不安や恐怖によるものだ。
一見強面そうに見えても常に他人からの攻撃に怯えていたり、お金持ちでも失う恐怖に震えていたりする。若くて美しくてもやがて来る老いの訪れに慄いている。
また、昨日と同じように通勤してきた同僚が、実は昨晩パートナーから暴行をうけたかもしれないし、大事な友を失ったかもしれない。
客観的事実がどうであれ、つらいと思っている人間のつらさと自分のつらさを数値化して比較できない以上は、愚痴る人間の主観に立ち、「より楽をしている」こちらがケアを請け負うことにより摩擦を避けなければ、社会生活はやっていけない。
お互いが他人には計り知れない大変さを抱えつつ、それでも少しずつ譲歩しながら、誰かのケアをしている。
少なくともわたしの個人的な友人関係はそうやって助け合っている。もちろん、愚痴る側のマナーをわきまえているから成り立つのだが。
(あなたもいろいろ大変なのに)聞いてくれてありがとうという態度と、一つまみのユーモアである。

 

先日、出産前の「両親教室」を夫と一緒に受講した。
そこで、夫側が妊婦体験ジャケットを着て、妊娠中の不自由さを体験するというプログラムがあった。
わたしの夫も含め、そこにいた男性の誰もが重さと邪魔さに驚いていた。
実際はいきなりその重さになるわけではなく8か月くらいかけながら徐々に徐々に重くなってゆくので、もう少し体感としては楽なのだろうが、内容物が生き物だという心労を加味すればやはり妊娠は大変だということになるだろう。
「7キロの重りを抱えて生活する」ことの大変さを言葉で聞くよりは、重りを一度抱えてみる方が理解が容易なのは自明だ。
夫はその日の夜、かれの苦手な排水溝の掃除をやってくれた。
そして、次の日、食洗器を買いに電機店へ連れていってくれた。激務の仕事を終えた後に、だ。
彼は決して他人の大変さに鈍感な人間でもなければ、自己憐憫に溺れるような状況になることもごく稀な、健やかで善良な人間だ。
それでも、言葉の説明だけでは足りず、体感としてより一層理解する余地があったのだ。
言葉も論理も万能ではない。何のことはない、技能系の仕事をしていれば日常的に遭遇する当たり前のことだ。

 

匿名ダイアリーで話題になっていた「産褥期の夜通しの育児に付き合ってくれた夫に対する感謝」とは、一緒に死にそうになってくれたことへの満足なんかではない。
そうやって、身をもって妻のつらさを積極的に理解してくれた結果、より夫のサポートが的確になり、夫婦の信頼関係が深まったという認識が言外にあるのではなかろうか。
少なくとも、わたしの浅い経験の範囲ではそう解釈した。
それを妻の怨嗟のはけ口だとか嗜虐心と捉える人間と、会社で適当に付き合うならまだしも密室でうまくやっていく自信はわたしにはない。
痛めつけて満足するほど見下している他人と家族になるだろうか。相手を幸せにしたいと思ってチームを結成するカップルが多数だと、少なくともわたしはそう思う。
妻に痛めつけられて自己憐憫に溺れている状態の人間については別のケアが必要だとは思うが、その人間がいま腹から血を流しながら夜通し自分の血肉をすごく死にやすい他人に分け与えている状態の女性に牙を剝くならば、それは余りにむごいことである。
あなたが大変なのはわかるよ。わかるからこそ、パートナーは炎上して死にそうになるまであなたに助けを求められなかったんじゃないかな。
そう解釈することは、愚かだろうか。不合理だろうか。
夫が、両親学級のワークショップで「妻にしてあげたいこと」として、気軽に頼れるように「仕事大変」感を出しすぎないようにしたい、と言っていて涙が出そうになった。
夫は職場の同僚なので、彼がどれだけ大変な立場で仕事をしているか、わたしはよく知っている。

 

また、妻の側の伝える能力への疑問視についても少し。
わたしはどうしてもフェミニズムの立場から見てしまうので偏った意見になってしまうとは思うのだが、女性が指導的立場で社会参加する機会の欠如は、家庭運営にとって明確によくないことであると思う。
女性がいわゆる「察してちゃん」になってしまうのは、責任ある立場や指導的な業務を経験をしてこなかったツケであると感じているからだ。
その責任のありかについてはここでは論じないが、少なくとも「察してちゃん」と結婚する事態を避けたいと思っている独身男性は、「控え目」「従順」などの一見すると美点に思える性質に飛びつかない慎重さが必要である。
個人的には、明るく正直で、わかりやすくわがままな女性が現代の結婚生活、とりわけ共働き核家族家庭には向いていると思っていて、自分もそうあるように努めている。
「察してほしさ」は遺伝的にどうしようもない性質ではなく、認知の仕方を工夫することによって改善できる類のことだと思うからだ。
ただし、そうはいってもその能力は一朝一夕で身につくものではないし、今まさに溺れようとしている時にいきなりできるようなものでもない。
溺れる状態になってしまった原因は妻側にもあるだろう。必要なサポートに対する見通しが甘かったり、家事業務の抱え込みをして夫婦間での共有を怠っていたこと。
それを後で責めることは簡単だが、チームは常に「メンバーはみな精いっぱいやってきた」という前提で、変えられる未来にフォーカスするというのが現代のマネジメントの主流だ。
もうプロジェクトは炎上してしまった。妻は限界だ。その状態で、もし夫側も酷い鬱で動けないとかならばもう、ただゲームオーバーなのだ。みんな死ぬしかないのだ。
そのとき夫を責めることなんて、ほとんどの人はできないんじゃないかな。介護疲れで心中する一家に対して石を投げる人間ってそんなに多いだろうか。
しかし、夫にいくらかの体力と鎮火への意思があるならば、せめて一緒にいてオロオロするだけでよい。人はそれだけでもいくばくか救われる回路を持っている。
溺れている人を助けようと咄嗟に考えなしに濁流に飛び込んだ人がいたとして、たとえ助けることが出来なくともそれは愚かなことだろうか。
足がすくんで飛び込めなかったとして、ほかの誰かに助けを求める声を上げることだって十分に立派だ。
仲間として最悪なのは「溺れるている者がベストを尽くしていない/溺れたふりをしている」と決めつけて、何もしないことなのだ。
炎上しがちなプロジェクトばかり請け負っている身としては、そんな風に思う。
もちろん聖人ではないわたしたちは「あいつサボりやがって!」とか、口では言いながら、行動としては助けるのだ。

 

もちろん、いつも溺れてばかりいて手に負えない隣人からはそっと離れることを検討したっていいだろうし、結婚するならある程度の泳力を持った人を選ぶというのも大事なことだ。
それを殊更、悪辣に言うこともないだろう。
自分が一番大切でいい。
ただし、自分が一番大変かどうかは誰にもわからない。
だからこそ、他人の不自由に寄り添うことと、それに感謝する心の営みを馬鹿にしないでほしい。