サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

竹輪とわたし

竹輪が好きなわけではないのだが、時々無性に食べたくなる。
わたしには竹輪の存在意義がよくわからない。板かまぼこではだめなのか。焼きが必要ならば笹かまのようなフォルムでもよいのではないか。
おでんの竹輪が好きという者もいるが、おでん種はもともと味が薄く、汁が染み込んでいく方向性の大根、卵、こんにゃくなどがうまいのであり、出汁に旨味が溶け出す竹輪や薩摩揚げなどは分が悪いのではないか。おでん種としてのそれらより、単体でのそれらを炙ったものの方が圧倒的に有利なはずである。
しかし、竹輪がそのポテンシャルを如何なく発揮するステージがある。それが弁当だ。冷めても味が濃く、何においても穴の部分にキュウリを詰めるなどの細工ができるという、他の追随を許さない特異点を弁当箱の中で誇示する。しかもその費用対容積は肉の出る幕など一分たりとも許さないほど家計を優しく妖しく誘惑する。多くの日本人は保育園、幼稚園あるいは小学校の遠足で、竹輪弁当に洗脳され、自身の食習慣に彼等の闖入を黙認することとなる。これからも竹輪は当然許されたような顔をしてスーパーの蒲鉾コーナーに鎮座し、我々のお財布事情へダイレクトに語りかけてくるのだ。
かくして、奇天烈な魚肉の加工品はわたしたちの潜在意識下に棲みつくこととなり、数ヶ月に一度ほど酒の共として登場するに至る。ちくわのともである。

なお、わたしは関東圏の出身ではないため、ちくわぶに関してはこの限りではない。