サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

だいたいいつも困ってる

薬が効き始め頭が回復してきて、自分が随分と長く不調だったことがわかった。ゆっくりと、くねくね坂を下るように少しずつ悪くなっていったようだ。
初診では今年に入ってから調子が悪いという申告をしたが、今週の受診でそれを訂正し、じつは半年以上調子が悪かったことに気づいたことを告げた。

異常と正常の境目は曖昧だ。
わたしは整理整頓が苦手で、失言も多く、興味のないことを我慢してやりとげるのが極度に苦手だ。周りからはそう見えないようだが、長い時間をかけて苦手な状況から逃げ回るのがとてもうまくなってしまったから、さもありなん、だ。しかし、逃げていることは自覚しているため、自責の念がいつも追いかけてくる。
もちろん、得意なことも多い。一見関係ないもの同士を複雑に結びつける能力、危機的な状況で冷静に問題解決の突破口を見つける能力、声色に表情をつけてすらすらと言語を出力する能力。どれも元々才能があった。そこに訓練を重ねてきた。給料も稼げている。

診断すれば自分がなんとかという障害の基準に引っかかることは予想できる。
小学校でも中学校でもベテラン教師のクラスに配され、通知表の生活面に多少何か小言が書かれ、(自分としては)わけのわからないタイミングでよく怒られた。夏休みの宿題は算数だけいつも提出できなかった。そもそも教科書のどこの範囲が宿題なのかもいまいち整理できていなかった。ランドセルや机の奥には黴びたパン、1時間目が水泳授業で服の下に水着を着て行った日はパンツを忘れ、習字の筆はガビガビ、時間割どおりに教科書を用意できなかったのでランドセルはいつもずっしり重かった。
家庭では3人きょうだいの真ん中で放置ぎみに育てられたため、とくにその辺のフォローは無かった。周りの女の子はみんな出来ていたのに、わたしだけドジなほうの男の子並だった。そういえば同じレベルの女の子もいたが、今から思えば、きょうだいが多い家庭の長女だった。わたしはとにかく人並みのことができなかった。でも、それは助けが必要なレベルの出来なさではなかった。

勉強は違った。授業は板書ができなかったし、手が勝手に教科書やノートに落書きをしていたが、先生が話した内容を全部覚えていたので、自宅学習はしなかったがテストはほとんど満点に近い点数だった。漢字の書き取りと算数の計算問題を除き。
勉強は出来るし褒められるし、内容も面白いので、5年生から親にお願いして英語塾に通わせてもらった。
家ではお父さんがどの教科でも教えてくれた。とくに、理科は高校で習うような内容まで踏み込んで教えてくれた。わたしは理科が大好きになり、すごく得意になっていった。計算問題を除き。

中学に入ってからは少し落ち着きがでたような気がする。毎日部活でヘトヘトだったからかもしれない。その代わり、とにかく毎日眠かった。これは大学生になっても続いた。夜にどんなに寝ても、授業中に眠いのだ。先生にはよく怒られたが、わたしは本当に困っていた。みんなは我慢して起きているのに、どうしてわたしは我慢できないのだろうと思っていた。

わたしは基本的にいつも自分が周りより劣っているような気がして、いつも何かに困っている。困ったり悩んだり自分を責めているのが基本なので、いつから調子が悪かったのかなんて、もうわからない。
物心ついて、しゃべり始める前にはもう困っていた。調子が悪かった。

調子がいいのは、そう、あの何時間でも集中できる波が来た時だけだ。高校と大学を卒業できたのはそれのおかげだ。でも、あれの後は酷く疲れる。受験勉強も設計課題もあれをつかって乗り切った。6時間半、設計製図をし続ける資格試験もあれのおかげでうまくいった。

先週、半年ぶりにあれが使えた。脳が治ってきている証左だ。
でも、あれはきっと寿命を削っている。だから新卒のころ、怖くて設計職を選ばなかったんだ。
結局回り道して設計職になってしまったな。わたしはあまり長生き出来ないな、と、漠然と思う。