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サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

先生なんて呼ばないで

どこに行ってもすぐ「先生」付けで呼ばれる。主に年上の男性からだ。
現在はそう呼ばれても仕方ない立場なのだが、若い時からそう呼ばれることが多い。

何故かはよく分かっている。態度がでかくて、説明が長いからだ。そして「先生」とはそれに対する忌避感のニュアンスが強いことも分かっている。
見解をはっきりと言い切るのは危ないことだ。世の中のほとんどの分別のある人間はその危なさをよく分かっていて、あえてその橋は渡らず、なにか意見を求められても、他人に話を振ったり、結論を濁したりする。大人の対応というやつだ。
残念なことに、わたしにはその能力が全く備わっておらず、「こうだと思います」、「それを判断するためにはこの情報が不足しています」、「わたしの立場ではこう言わざるを得ません」など、反射的に回答を出力してしまう。下請け根性というのも大いにあるが、基本的にはただの親切な間抜けだと自分では思っているのだが、必ずしもそう受け取ってもらえないことが多い。見方を変えればこれは勇気ある堂々とした態度にも受け取れるからだ。また、わたしの論理展開は一般的にわりと納得されやすいフレームを採用しているので、仕事などのいわゆる理屈が支配する場面では支持されやすい。感情が支配する、友達付き合いのような場面に関しては、惨憺たるものなのだが。

さて、全くの私見だが、わたしに先生と呼びかける男性は、自分が賢く強い存在でなければならないという強迫観念があるように思われる。そこで自分が守らなければならない(と思い込んでいる)、「年下の女性」の勇敢さを見せつけられると、いたたまれないような気持ちになるのではないだろうか。
わたしにも、もちろんいたたまれないシチュエーションはあるのでその気持ちはよく分かる。食の細い友達と食事をした時である。外食での一人前の量を食べきれず残してしまう友人を前に、不自然なほどガサツな女を演じてしまうのだ。これはわたしに「女性は少食で、痩せていなければならない」という強迫観念があるためだ。
なので、コンプレックスを刺激された時につい誤魔化してしまう行動としての「先生」呼びであることにいつしか思い至った。それからは、相手に直接こう伝えるようにした。
「ちょっとー!!やめてくださいよー!それは、不当にでかい態度をとる人を馬鹿にする呼び方ですからねー!」

こう言えばだいたい笑ってくれる。これは、わたしが「いわゆる女性」らしくない自分に対するコンプレックスを開示しているからだと分析する。目には目を、コンプレックスにはコンプレックスを。(間接的にでも)不用意に弱い部分を見せてしまった時は、誰しも平静ではいられない。そんな時にはやはりこちらの弱みも進んで見せていくのが人の情けだろう。なあに、その弱みが嘘や大げさでも、相手に「弱み」として認識されればいいのだ。その辺り、プロのハゲやデブやブスの人はとんでもなく強かで、かつ徳が高いのだと思う。彼らのスタンスを見習っていきたい。

わたしは自分なりの美しい生き方をしていたい。そうでなければすぐ死にたくなってしまうからだ。
そのためには、やはり、人間の弱さからくる不自然な言動に寄り添うことも必要だし、そのために自分の恥ずかしい部分と向き合う強さや勇気が不可欠である。嘘をうまく使いこなす知恵や演技力だって生きる力だ。

目指すはプロのおばさん。道のりは暗くて長いぜ。