読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

難しいなにかと雨の日曜日

フロントガラスが滲む。外はあんなに明るいのに。

わたしの目にはどうしてワイパーがついてないのだろう。

大声で木村カエラのヒット曲を歌いながら日曜の湘南の海へ一人ドライブ、仕事に向かうのだ。

 

9月に入る頃には、もうすっかりわたしのメインコンピュータはポンコツに壊れきっていた。他人の言葉は私のおでこにあるフィルタでその情報の意味をすっかり抜かれ、全てがアポトーシスの引き金を引く信号に変換された。要するに「いなくなっちまえ」、ということだ。

客も、下請けも、上司も、営業も、経理も、全てが敵だ。ついでに遠く暮らす、家族も、恋人も加えてちょうど7だ。石田三成の言ったことを全面的に支持しよう。

 働かない頭のせいなのか、誰の顔も仕事量を指し示す丸いメーターに見えてくる。もちろん針は少しも左へ動こうとしない。現場からの怒りの電話は睡眠時間と休日と残り少ない自尊心を容赦なく削り取る。現場の連中は低学歴のノータリンだから、こっちの都合はお構いなしだ。怠けたいけど金はほしい、責任なんかはとりたくない。いや学歴は関係ない。わたしだっておんなじだ、できることなら寝ていたい。でもわたしがいたお上品な世界では、みんなもっとうまくオブラートに包んでいたような気がするよ。

寝過ごして叱られて全てに失望されればよかったのか、それとも湘南の海に車ごとダイブすればよかったのか、今でもわたしはよくわからない。わかっているのはこれから語ることがそのいずれでもないということだ。

 

最近担当を任された現場の元請け監督は女性だ。きっと上司の取り計らいだ。建設業界でも女性の進出が著しいですね、バカバカしい。出版業界でも素人の進出が著しいですね。政治業界でも高齢者の進出が著しいですね。自宅警備業界でも無職の進出が著しいですね。言葉遊びの延長だ。建設業界でも女性の進出が著しいですね。めでたいめでたい。わたしだって進出したかったわけじゃない。残念ながら女に生まれてきただけだ。言うだけ言うならタダなのでこの際言ってしまうけど、女に生まれてこなければ、わたしだっていまごろスーパーゼネコンの監督様だい、なんてね。

 

「そんなに難しくない仕事」という吊橋渡りのような上司の言葉をうけて、打合せのために現場へ向かった。「そんなに難しくない仕事」に失敗すれば、いよいよわたしは無能の謗りを甘んじてうけねばならない。

近頃おかしいのだ。一人になると涙が止まらない。家に帰れば、洗濯するのも風呂に入るのも億劫で、掃除なんてもってのほかだ。最後に化粧をしたのはいつだったろう。お盆には京都に旅行に行ったっけ。あの時はまだ頭の白い塊は小豆ほどの大きさだったのに、よくも成長したもので、今では頭よりも大きな漬物石が頭のなかに座り込んでいる。

左手には海水浴客で賑わう海、国道を挟んで右の山側は住宅街。海から50mほど坂を登った場所にある、建て替え住宅の現場が本日の目的地だ。現地につく頃には両目の漏水が止まるのだから、ヒトの仕組みはよくわからない。敷地の脇に車を止め、9月のいささか慎みに欠けた午前の日差しの下に意を決して転がり出た時、既に現場に着いていた元請け監督の姿を見つけてしまった。彼女は20代後半、腰まである長い髪を一つに束ね、化粧けのないつるっとした丸顔に勤勉さの象徴であるメタルフレームのメガネをかけていた。小柄だが背筋は伸び、メガネの向こうから直線的な視線がこちらに向けられたと同時に、わたしは振り絞るように挨拶をした。

 

何の仕事だったのかはよく覚えていないが、その間じゅう女性監督はにこりともしなかった。

打ち合わせを終え、彼女が帰り際、すこし顔をしかめながら穏やかにわたしにこう言った。

「わたしはこの仕事がやりたいと思って、やっているんです。あなたは?」

 

もちろんです。わたしだってこの仕事がやりたいと思って始めたんです。でも、どうしてこうなってしまったのか、これからどうすればいいのか、誰も教えてくれないんです。あなた教えてくれますか?どうしてわたしはあなたになれず、壊れた蛇口になってしまったんですか?どうしてわたしは日曜日に湘南でサーフィンをしてないんですか?どうしてわたしは自分の給料では買えない家の工事をしているんですか?どうして今日はそんなに難しくない仕事だったはずなのに、こんなに難しい問題に気付かされてしまったんですか?ちくしょうちくしょう。

 

彼女の問いかけに対し、わたしは叱られた犬のように黙ったまま曖昧に笑うことしかできなかった。坂の下から駆け上がる夏の名残の潮風が鼻の奥をツンと塩辛くした。

 

何か考えようとしても頭の石が重くのしかかり、ハンドルを握るのが精一杯だ。車内に再び雨音が響き、やがて彼女の声も、わたしの声も額の奥に吸い込まれていった。養分を得た頭の石はまたすこし重みを増した。