読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

11月を忘れない

11月がきらい。

初雪は溶け、根雪になる最初の雪が振りそうで振らない時期、朝晩の冷え込みは一層増し、街路樹は裸になり、交差点はよそよそしく黙りこむ。見知らぬお客が我が家に忍び込み、家族を連れて遠く彼岸へ行ってしまう。

祖母が亡くなって丸7年、愛犬が死んで丸5年になる。

 

祖母が亡くなる2ヶ月前、わたしは一人暮らしをしていた横浜から祖母と両親が住む実家へ強制送還された。希死念慮がひどく、誰かが見張っていなければならないというなんとも傍迷惑な状況だった。あの時はもう何もかも終わりだと思ったが、今となっては憂鬱でも動けるし、死にたくても息をしてご飯を食べる。土台が悪い人は一回終わってみるのも結構意味があるんじゃないかと思う。土台が悪い人が思っている「終わり」の定義からして、わたしは疑っている。

 

やさしいおばあちゃんだった。

祖母は町の板金屋の長女、職人さんたちに囲まれ、読み書きそろばん、お裁縫など当時の北海道では比較的しっかりとした部類の教育を受け、お見合いで祖父と結婚し、3女1男を育て上げた。

祖父は傷痍軍人で「びっこを引いて」いた。(子供の頃からよく聞いていた表現なのでそのまま使います)今から考えればたぶん軽いアル中でもあったのだろう。父がよく「子供の頃親父が酒をのんで絡んでくるのが嫌だった」とこぼしていたので、現代の基準に照らし合わせれば、そうなのかもしれない。

祖父は足の怪我のせいで実家の農家は継げず、事務系の仕事をしていた。祖父の母は息子が「カタワ」になって帰ってきたことについて、「いっそ死んてくれればよかった」と周囲に漏らしたそうだが、運悪く祖父はそれを聞いてしまったことがあるらしい。それが当時の価値観なのだろうと解釈するのは簡単かもしれないが、むしろ「息子が癒えない傷に苦しむ姿を見ていられない」という母の悲嘆と見るのが妥当だとわたしは考えている。そうであってほしいという多少の願望も込みだ。曾祖母がまともに教育を受けていたかどうかはわからないが、きっと、複雑な心情を表現するには語彙が足りなかったのではないだろうか。

祖父は60代にして癌で死んだ。晩年、酒を控えるよう医者に勧められた祖父は、大好きだった日本酒をやめ、焼酎の牛乳割を飲むようになったというエピソードがなかなか味わい深い。それでよかったんか。

 

ただ、前述の祖父の心の傷について祖母が知っているということは、祖父が何らかの形でそれを自分の妻に打ち明けたのだろう。祖父にとって祖母はそういうことを言える相手だったということだ。多少下衆めいたことを言えば、祖父は甘えていたな、と思う。大正生まれの男は我慢強く無口で立派だったみたいなテンプレ通りの美化は少なくとも祖父には当てはまらなさそうだ。傷ついて周りに甘えてしまうふつうの人間の一人だと思うし、それでじゅうぶんだ。人生において大変つらい思いをすることが即ち立派なことではないし、立派でないことが故人の名誉を毀損するものでもない。わたしの祖父は「戦争で大変な思いをした人」というよりも「医者に怒られながら焼酎の牛乳割りを飲んでいた人」のほうがずっとずっといい。

祖母は同居の嫁(わたしの母)にも優しかった。積極的に手を出して助けたりはしないが、なんでもかんでも許していた。母は比較的ヒステリックな女で、自閉圏に片足を突っ込んでいる兄と言語発達が早い割に不注意の多いわたし(要するに育てにくい子供たち)はまあよく怒られた。あの時は永遠のように長く感じられた叱責タイムだが、今から考えればせいぜい30分くらいのものだったのだろうか。流石に長引くと、母屋から祖母がひょこっと現れて「もうその辺にしておいたら…」という助けが入る。本音を言えば、「もうちょっとはやく来てほしい」といつも思っていたが、祖母からすれば、嫁とはいえ他人だ。「ヒステリックに暴力を振るう女」に意見するのは結構勇気のいることだったのではないかと思う。

かといって、母のいないところで私たちに母の悪口を言ったりしたことは一度もない。というか、誰かの悪口を言っているのを聞いたことがない。自分の娘(わたしの叔母たち)にはよく小姑(わたしの大叔母)の愚痴を言っていたらしいが、そういう話は幼い子供の前ですべきではないという矜持があったということだ。

祖母はよく「きょうだい仲良くしなさい」とわたしたちに言った。その当時は仲良くなんて出来ないと思っていたが、因果なもので大人になってから何故か彼らは私にとって無二の親友同士になってしまった。言霊というのはかくもおそろしい。

わたしは祖母にとって唯一の女孫だったので、セーターを編んでもらったり、浴衣を縫ってもらったりとにかくお人形のように可愛がられた。また、ディズニーのジグソーパズルを一緒にやったり、あやとりやお手玉を教えてもらったり、よく遊んでもらった。他の兄弟もそれぞれ祖母との思い出はたくさんあって、それぞれがそれぞれに特別かわいがってもらっている。母の立場としては色々と複雑だったとは思うが、それは母自身が若かったこともあるし、父がしっかりそのあたりを取り持つようなケアをしなかったことに依るところも大きいだろう。若い夫婦のありふれた話だ。

色々と問題のある家庭ではあったが、わたしがまあなんとか今までやっていけているのは、同居していたおばも含め「色んな善き大人」がいる家であったのが大きい。

ただ、小学校の高学年に差し掛かる辺りから、わたしは「母はわたしがおばあちゃんに甘えるのを快く思っていない」ことを察知しはじめた。おばあちゃんの母屋でのんびりしていることを怒られたり、おばあちゃんが編んでくれたセーターにけちをつけたり、おばあちゃんが買ってきてくれるおやつを要らないと言って返してこいと命令したり、今から考えればなかなかのものだったと思う。

ただ、わたしは悲劇のヒロイン体質の母を素直に可哀想と思い、味方をしてあげなければならないという使命感から、あまり祖母に甘えることができなくなっていった。また、努力して自立を目指す生き方しか自分に許していなかったので、祖母のような「誰かに守られて生きてきた女性」と接するのが辛くなってしまったのだ。

今では祖母がいかに「誰かの心を守ってきた人間」か、少しは理解できるようになってきたが。

 

高校卒業とともに実家を出て、それ以来わたしと祖母の記憶は更新されていない。ただ、わたしが子供の頃も、死の間際も、祖母は同じ人だった。四半世紀にわたって祖母は変わらず同じ人だった。穏やかで楽天的なやさしいおばあちゃんだ。

 

 祖母がベッドの上で眠ったまま帰ってこなくなってしまった朝から数えて7日前、11月の中旬では珍しいほどの雪が積もった。

休暇中で実家に来ていた兄と、雪かきのついでに雪ダルマを作った。北海道の雪は湿気が少なく、真冬には雪ダルマを作れない。初雪の時期が数少ないチャンスなのだ。塞ぎこんでいたわたしへの兄なりの気遣いだったのだろう。

三角の耳と小石の鼻をつけて愛犬の顔に仕上げた雪ダルマが完成すると、家の中からそれを見ていた祖母が嬉しそうな顔で庭に出てきた。普段は出かけることの少ない祖母が外に出てくるなんて珍しいなと思ったが、ほんとうに嬉しそうにしていたことを覚えている。

最後の思い出としてはよく出来すぎなくらい、何もかもが美しかった。

89才、死の前日まで祖母は25年前とほとんど変わらぬ暮らしをしていた。溶けかけた雪ダルマの犬が首をかしげる頃、祖母は牛乳焼酎の幽霊に呼ばれていってしまった。

兄妹仲良く遊ぶ姿を見せて送り出すことができて本当によかった。

 

 

一昨日ついに、積もるほどの雪が振った。

真っ白に化粧した街は明るく息を吹き返し、急ぎ足の交差点が賑やかにざわめきだす。外の空気は清潔に張り詰め、家々の温もりが窓からこぼれ出す。この街でいちばん自慢の季節が始まれば、まるで11月なんて存在しなかったかのような顔でみんな白い息を吐くんだ。