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サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

不条理と頭上に広がる無彩色

ここは最低限日本人が読んで意味の通る文章で、言葉に余剰物を巻き込まぬように用心して綴っている。つもりだ。

ただ、日本人一般の脳の作りと、自分のそれがかけ離れているのは30余年かけてうっすらわかってきているので、用心して綴ったものがねらい通り読み手に伝わっているかは、甚だ疑わしい。もちろん、わたしの作文能力が拙いのはそうとして、わたしが一言一句注意深く言葉を選んでいたとしても、わたしの「空」とあなたの「空」は違っていて、そのことこそが20年前に新世紀についての有名なアニメが描いた断絶と孤独に相違なく、わたしはその世代に青春を過ごしたオタクなので、当たり前のようにその断絶と孤独の存在を認識している。このあたりのことは90年代からゼロ年代にかけて、つまり、インターネットが「ぼくらの」インターネットだったころに語り尽くされ、わたしのような薄皮の張り合わせのような人間がなにか役に立つ新しいことを言えるとは到底思わないのだが、薄皮の張りあわせを自覚したタイプの薄皮人間は周囲を見渡してもそんなにおおくは見当たらないので、15年以上前に掲げた自らの指針である「徹底的に中途半端に生きる」という、やや熱に浮かされたパラドックスに倣い、ちょっと周りを気にしつつ、ちょっと自意識をはみ出させつつ何かを書いていこうと思う。キモい。

 

「面白がる」人間と、「面白い」人間は全く意味合いがちがう。わたしが「面白がる」人間であることは間違いない。生来のドーパミン不足のため、常になにか脳が退屈しないような仕掛けをこの世界に見出そうと、頭上遥か高く輪を描く猛禽、あるいは、暗い淵の底でじっと息を潜めるナマズのように、餌である「不条理」を求め続けるのだ。かといってわたしは自分以外の人間から観察して「面白い」対象になりうるかというと、甘く見積もっても「不愉快」側に数えられるケースが多いだろう。「面白がる」ためにわたしが世界に向けて発する何かは、歓迎されない事が多いのだ。愛されること、大切にされることは退屈であるが、「常識的な人びと」がわたしの存在に顔をしかめる様子、一生懸命にわたしを更生させようとする様子は面白おかしくてたまらない。

 

わたしがまだ「常識的」だったころ、「空」は「空」であり、あなたの青い空とわたしの灰色の空に区別がなかった。「不条理」が栄養を含んだ「餌」だと気づかず、霞ばかり食っていたので、わたしはいつも腹ペコだった。空腹に耐えかねて無自覚に不条理を貪っては、周囲を閉口させた。社会人になり不条理の積極供給および摂取を控えた末、ついに栄養失調に倒れ、はじめてわたしはわたしの空に色がないことに気づいた。否、あなたたちの空がほんとうに青い色をしていることを知った。厳密に言うと、世界は無彩色の空をあたかも青いように口裏あわせて成り立っているのだという強い思い込みが壊れてしまった。

青と空との分断を経て、空が青く見える人が空についてどういうふうに思いがちなのか、目の前の人の空が青いのかそうでないのかについて見当をつけることがうまい人間になった。青い空の青さについて実感を伴って説明することは出来ないが。

 

「面白い」とは、青い空をさして「赤い」という「勘違い」をするものを嗤うことだ。しかし、いまやわたしは「赤い空」に住む人間が存在する可能性を否定できなくなってしまった。それからというもの、テレビのバラエティが見られない。テレビは空が青すぎる。

赤い空を嗤えなくなったかわりに、わたしは青を知らず青い空に生きる人を嗤うことにした。青が見えないくせに「赤い空」の住人を嗤う人間は驚くほどすぐ近くにいる。かつて自分がそうだったように。かれらに空の青さについて説明させるのだ。それはわたしを何度でも満腹にさせる、極上の「不条理」だ。

他人と違う空に生きることの孤独感は、空が青いと信じて生きていたころに比べると量も強さも桁違いに増えた。しかし、灰色の空と、「不条理」を食ってエネルギーとする仕組みは、わたしにとっては極太のインフラとなり、今や生命活動をする上での、文字通り、大動脈となっている。

また、孤独感は他人の生きる空の色への興味に変わった。その興味の赴くまま他人を観察するのだ。青い空ごっこをするわたしを見て面白がる、空の赤い人間を見つけることができた。お互いに「不条理」を披露し合い、それを食べさせ合う関係だ。何かの「それ以外」という項目に住まう者同士のコンテクストの共有は孤独を紛らわすためのまずくない依存対象だ。それの効き目は、アルコールより強い。その副作用が何なのか、まだ良くわかってはいないが、今の自分にとってこの自助グループがなくてはならないものであることは間違いない。わたしたちが何かに依存せずには生きていけない脆弱性を抱えた生き物ならば、せめてまだ副作用が明らかでないものにしておくのが懸命だろう。そのほうが周囲も「仕様がない」と諦めてくれる。

 

心の餌が何なのか見誤ると、まずい結果が待っている。食べていると思い込んでいるものは霞かもしれない。毒だと思い込んでいるものが餌である可能性に目を向けるのだ。もっとましな方を選び取っていくほうが、少しは後ろめたくなく生きられる。

青についてわたしに一生懸命説明したかれらの中に、自分の空のそれ以外の色を見出すものが出れば面白い。「勘違い」に「気づく」瞬間のあなたの顔が、この世でいちばんおもしろい。

ちなみに、わたしはそのアホ面を何度でも晒しながら生きる覚悟はできている。そうでなければこんな文章は書けないからね。