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サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

「こんなものうまくいくはずないだろう」

あなたは神を信じますか?

 
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神様はいるんだ。私はわりとまじめな曹洞宗の信徒で、実生活では仏様の教えを道しるべとして功徳ポイント稼ぎに勤しんでいるけれど、神様もいると思っている。なんの神様かというと、「設計の神様」だ。「設計の神様」を信じていなければ、いい設計図は描けない。
「答えはひとつじゃない」という設計士やデザイナーがいれば、かれらに仕事を頼んではいけないよ。この世界に対するかれらの態度は不真面目だ。
ほんとうは答えはただひとつで、設計の神様だけが知っている。それをわたしは「至高の解」と呼んでいる。みんながよかったねと幸せになる、その答えを求めて神様に問い続けるのが私たちの役割だ。
 
私はプログラミングができない。私にはプログラミングの神様を感じることができない。至高の解があることを信じることができない。でも、プログラミング教の信徒たちは、その至高の解のためにその身を捧げているのだと思う。
 
私の周りには営業教、検査教、公益教、経営教、施工管理教、いろんな神様に仕える敬虔な信徒たちがいる。かれらは至高の解の存在に疑いがない。「何かいちばんいい方法があるはずだ」と、常に問い続けている。
 
私は22才で施工管理教に入信したが、どうしても神様の存在を信じることができなかった。修行には身が入らず、心と身体がばらばらになってしまい、25才で破門になってしまった。いつも思っていた。「こんなのうまくいくはずがない。」至高の解の存在に考え及ばず、信じて進むがどうしてもできなかった。
営業教の敬虔な信徒に尋ねたことがある。どうしてそんな大変な仕事を続けていられるのですか?かれは言った。そういう疑問を持ったことがないよ。
 
わたしは27才で設計教に入信した。
いや、本当は5才で既に入信していた。わたしは物心ついた時から自宅の前の舗装道路に軽石で理想の間取りを描き、小学生時代には紙工作の展開図や洋裁の型紙づくりに夢中になり、中学校の時に図学を習う段階で既に三面図や等角図の描き方を知っていた。誰に習ったということもなく、既に知っていた。
四角いものを見れば縦横比を、連続するパターンを見ればその周期を、脳が勝手に考えていた。色鉛筆は色相の順に並べ、明度の違いに苛々し、次元の概念を知った。(ピンクをオレンジと赤の中間に入れるか、赤と紫の中間に入れるか悩んだ。)遊歩道のインターロッキングブロックの、パターン通りに並んでいない部分にも苛々し、数列の概念を知った。レゴブロックで曲線を表現しようと悪戦苦闘し、微分の概念を知った。親はわたしをボーッとした子供だと言った。家も街も図形と模様に溢れていてわたしはいつも忙しかった。神様はいつもいた。(一般的にそれを何と呼ぶのかについて、わたしは知識として知らないので、全知全能の存在の代名詞である神様とよんでいる。)
ベクトルも極座標も順列組み合わせも行列も最初から知っていた。ずっと考えていたことをみんなで一緒に使うための表現のルールを学校で習っただけだ。当然、ものをつくるための学問を専攻した。それ以上に没頭できるものはなかった。
27才で修行を再開した当初、あまりに出来ない自分が苦しくなり、師匠に問うたことがある。わたしは本当にできるようになるのでしょうか?師匠は少し考え、こう答えた。きみは、筋はいいよ。
疑いのもやが晴れ、「至高の解」の存在を確信した。
 
空虚さを抱えて生きているのがつらいならば、神のいる世界に生きてみればいい。
この国では信仰心について教わることがない。不幸なことに、おおくの無宗教を自称する人たちは信仰と迷信との区別がつかない。
しかし、科学的懐疑主義と信仰心は一人の人間に共存しうる。設計やデザインのプロセスはもちろん懐疑的に行わなければならない。その設計が本当にベストなのか、BやCではなぜだめなのか、自問自答を繰り返さなくてはならない。
ここで至高の解など存在しないという立場に立ってしまうと、すなわち成果品はすべて不完全なものである。未完成とは違う。完成品として不完全なものは醜く、邪悪である。醜く邪悪なものは人を不幸にする。ものづくりに携わる人間はそれを痛いほどよく知っているだろう。
 
設計の要件、顧客の要望、予算、しがらみ、色々な「うまくいくはずがない」と思わせる、古い油粘土のようなソリッドの隙間に、細く光る道が必ずあるのだ。わたしはそれを疑わない。その邪魔な塊はどんな形、色、手触りをしている?並び方は?動かせるところはない?重く不快な粘土に押しつぶされそうな状況へ、設計という手段をもって光る道を照らし出すのがわたしの仕事なのだ。子供の頃からそうだったように、世界には既に答えが書いてある。
みんながよかったねと幸せになる「至高の解」、わたしは安心してそれを見つければよいだけなのだ。