サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

こんなこと今更かしら、でも言うわ「シャネルに似合う女性になりたい」

起)おしゃれは苦行!苦行を強いるもの皆ヌッコロス!

承)外的動機付けっていまいち。知ってた。

転)その発想はなかった

結)おれ、オサレするよ///の巻

 

起)おしゃれは苦行!苦行を強いるもの皆ヌッコロス!

物心ついた頃には周りの大人からネタにされる程度にはデブだった。馬鹿にされないように標準体型だった時期も何度かあるが、放っておくと自然に太る。ここ数年はそこそこ偉くなってきたので面と向かって「デブですね」と言ってくる人間もいなくなってきたため慣性力に任せていた。社会的地位も体重も右肩上がりである。

もともと容姿が悪いわけではないようで、付き合う男からはいつも「もったいない」やら「おしい」やら、一般的には余計なお世話と呼ばれるありがたきお言葉を賜った。そのたびに「なんか寄越せ!なんかくれたら痩せるから!!」と心で思ったり、そういう趣旨のことを言葉に出して伝えては男をゲンナリさせた。今から思えば、ちょっとあいつらもゲンナリ閾値低くない?何もくれないのに私が痩せるメリットを享受しようとしてるのずるいよ!クレクレ君かよ!

一般的にはその「なんか」には愛とやらが代入されるとかいうのはもちろん知ってる。でも、愛という通貨は発行側の都合によってある日突然破綻することだって、わたしはむかしから知っている。だからその取引きはある程度の年齢で引退した。ましてや、そんな通貨を発行する側にまわるのは私の趣味ではございませんのことですよ。

承)外的動機付けっていまいち。知ってた。

お気づきかとは思うが、私自身は「綺麗でいる」ということ自体におもしろみを感じないのだ。魅力を感じないことにリソースを割くことを一般的には「苦行」という。だいたい、他人のためにダイエットなんぞの苦行をしていては、「こんな苦行を強いるなんて、あいつは悪い人間だ。おれ、あいつ嫌い。チチノカタキ、コロス……」本末転倒じゃないですかあ。だいたいにおいて、仕様がわるい。わたしの目がバラエティ番組でジェットコースター乗る時のカメラみたいな位置に付いてれば、いつも視界の端で小汚いものを見たくないですからね、そりゃ綺麗でいますよ。でも、一日に数回鏡を見た時に「よっ!今日も愛嬌たっぷりだね!」って思うくらい、年に数回お節介な友達から写真が送られてきた時に「みんなちがってみんないい」って思うくらい何だということなのだ。

 汚いほうがいいとは思わない。でも時間もお金もやる気も有限だ。美味しいものを食べれば幸せだし、高価な家具でくつろげば心地よい。ゲームもマンガも勉強も旅行も音楽もセックスも、わたしの脳に直接快感を与えてくれる。それに比べて「綺麗」はどうだ。買い物は楽しい。お金を使って何かを得るのは喜びだ。しかし、「手入れ」と名のつくことを極端に苦手とする人種にとって、ダイエット、ネイルケア、スキンケア、ヘアケア……ケアケアケア!!!頭が沸騰する。

 

転)その発想はなかった

そんな折、信頼関係にある人物から「どうやら上司が私がだんだん太っていくのを『ストレスかなあ…』と心配している」という話を耳にした。どいつもこいつも余計なお世話といえばそうなのだが、その手のことは本人には言いづらいということくらいはわかる。確かにわかる。

その発想はなかった。と同時に、自分の心の貧しさや、鈍さが恥ずかしいと思った。わたしは自分の見た目が「バカにされる」「けなされる」つまり評価されるという発想しかなく、「健康を心配される」という信頼関係に基づく親身な発想が抜け落ちていた。「愛」は嫌いだが、信頼は好きだ。信頼感はお金と安心を生み、お金と安心は生きるうえで欠かせない価値あるものだからだ。信頼にとって、外見は大事な要素なんだ。みんな最初から言ってくれよ!もう!(あと、ついでに冒頭の男たちもごめん、どんなつもりで言ってたかはもう知る由もないけど一応謝るね。)

かくしてわたしは信頼関係にある人達に安心してもらうために、「いっちょやってみっか」となったわけである。「ストレスないよ。おかげさまで今日もたのしいよ!という感じの見た目の人」になるのが目標となった。内的動機付けは永久機関なのでとにかく最強なのだ。

 

結)おれ、オサレするよ///の巻

仕事と同じで簡単である。PDCAをただグルグル回してインプットとアウトプットを続ければ良いのだ。どうせやるならちゃんとやるのが信条なので「モッサリ肥満」を「きちんとグラマー」へもって行くのを目標とする。まず、ダイエットはわたしの長続きしない性格にあわせて、「次から次からいろんな方法を試すうちになんだか結果が出たような…作戦」でうまくいくだろう(てきとう)。散々いままでやってきたしなんとかなるはずだ。しかし、ファッションについてはそうはいかない。基礎がない。ゼロからのスタートである。何かを効率よく習得するには何をおいてもまず基礎だ。書物だ。ダイエットの運動も兼ねて図書館へ赴き、モードの歴史や素材の種類、デザインの源流などを学んだ。ちなみにわたしは建築学をひと通り修めているので、近代史や芸術、デザインのことは割と知っている(自慢です。フフン)。だいたいファッションだってデザインなんだから、わたしがつまらないと思うはずはなかったのだ。それ自体がおもしろいものになると、ファッション誌はもはや苦行を強いる魔典ではなくただのお得な情報源となり、自分の体は扱いづらい厄介な肉塊ではなく少々できの悪いおもしろマネキンとなった。風変わりな条件での設計はエンジニア魂が燃える。

基礎学習の中で出会ったのがココ・シャネルである。あ、ベタすぎる?これ。まあ、お付き合い下さいよ。

まだ関連書籍を一冊読んだだけなのだが、すぐにシャネルは強烈な先輩となった。わたしは社会に出て以来、身近な手本のない道をあちこちなぎ倒しながら、たまに自分の方が倒れながら、傲慢に威勢よく進んできた。もっと早くシャネルの人生に出会っていれば、きっと今までの道のりでも彼女はわたしのはるか先で「つまらない女ね」と発破をかけてくれたに違いない。このへんのお話はまた改めて書きたいと思う。まあ簡単に言うと、わたしは彼女の生き方に共感し、功績に激しく嫉妬したのだ。シャネルのスーツが似合う、すらっとした美しい女はごまんといるだろう。しかしながら、シャネルと友達になれるような輩はそんなに多くないはずだ。

そんなこんなでこのブログは、わたしがこれからの道のりでつまらない選択をしてしまいそうなときに読み返し、「つまらん!」と鼓舞してくれる大滝秀治のようなブログにしたい。

シャネルの生誕150年、わたしが50歳になるときに、わたしは「21世紀の女」として、最高にわがままでおもしろくかつてない中年になっていたい。もちろん見た目もかつてない感じになっていたい。こうして苦行は修行という大義名分に絡めとられたのだ。おっ、うまいことまとめたぞ!