サロン・ド銀舎利

言えぬなら記してしまえとりあえず

みだりに報告

妊娠した。

「わたしは、すぐ出来るような気がする」と、以前誰かに言ったことがあったが、本当にすぐだった。あまりにすぐ過ぎて何の準備もできていないのだが、どうやら腹の子は待ってはくれないそうなので、明日病院へ行くことにした。まずはそいつが生きてるのかどうか確認せねばならない。

どうやら安定期とやらに入るまでは予断を許さないそうなので、みだりに周囲に報告するものではないそうだ。よってここで匿名でみだりに全世界に報告してみようと思う。

いや、そもそもわたしは結婚していないので、いきなり様々な何かをすっ飛ばされて妊娠だけ報告されても周囲も「お、おう……」としか言えないだろう。

 

高校の家庭科の教科書や生命保険のパンフレットにはライフプランなんてインチキがデカデカと掲げられている。とんまなわたしは当然それが自分にも適用され、プランどおりにライフが送れると無邪気に信じていたが、残念ながらわたしのライフはそんなに都合の良いものではなかった。あのプランは、夏休みの1日を円グラフに書いた配分どおりに過ごせるタイプの人向けで、終業式の日に両手に抱えきれない荷物を持ち帰る羽目になり挙句夏休みの宿題など最終的には提出せずに押し切るタイプの人間向きではないのだ。

 

今回もわたしはあの終業式のような絶望感の中、火事場のフルパワーで押し切ることになるようだ。できれば、あの時できなかった、家の近い子に少し持ってもらうコマンドを使えればよいのだが、いかんせん、いま隣にいる子も自分の荷物に四苦八苦していて冷や汗がでる。

すまん、腹の中の人よ、残念ながら父も母も平均よりはかなりポンコツで、故にきみの序盤戦はかなりハードなものになるだろう。だが、世界は美しく、未来は輝かしいので、無事日の目を見た暁には四苦八苦しながらほんの20年くらいの間はまあ一緒に楽しく過ごしましょう。

明けましておめでたいとはめでてえぜ

年内に色々書きたかったけど、バタバタしてるうちに年が明けてしまった。

昨年は細木数子の言うところの小殺界らしく、身体が弱って病院に通いまくった年だった。今年は数子的には達成の年らしいので、公私ともに仕上げができればいいですね。(てきとう)

わたしは占いを信じるタイプではないと周囲からは思われがちだがそうでもない。日常において、あらゆる選択肢について検討するのは面倒なので、自分に合っている占いや宗教のフレームワークに当てはめ、複雑な考えを省力化しているのだ。わたしは簡単なことは得意だが、難しいことは苦手である。フィジカルに見えるものを作るのは好きだが、目に見えないシステムや人間関係を構築するのは苦手だ。

 

そんなこんなで、今年はデカい契約を他人と締結する予定なのだが、周囲の思惑を調整するのに四苦八苦している。

まず、昭和一桁生まれは昭和式の通り一遍な型をナチュラルに当てはめてくる。その型はわたしには合わないということを説明しても無駄なので適当にやり過ごしてはいるが、何せ認知機能の闇に片足を踏み出さんとしている相手だ。こちらが黒に近いグレーの返事をしても、あちらは白を期待していれば「黒でない=白」と曲解する。わたしは、他人にがっかりさせる可能性がある場合はそれを伝えることを先延ばしせず最悪のパターンを先に伝えておきたい性分なので、「白でない」ことばかり強調して説明する羽目になった。老い先短いアラウンドナインティーの人間には酷だが、会うたびに白を期待して白でなかった生い立ちエピソードを聞かされている身としては、そうするより他ないのだ。

祝いと呪いは紙一重だ。わたしの喜びと他人の祝いは別のものなのだが、大抵の祝う側は自分の祝う気持ちとわたし自身の喜びの量に齟齬があるという想像をしない。その齟齬ばかり感じて、呪いに絡め取られそうになる。

そもそもこの契約の締結について、わたし自身が喜んでいるかと聞かれたら、正直いってよくわからない。契約無しに実だけ取れるのが一番だが様々な事情を鑑みれば契約するのが妥当だという選択はしてみたが、それに伴う周囲の思惑が重い。

 

そこでパートナーに「期待されるのが重い」と溢してみたら、「誰も期待なんてしてないよ」と返された。呪いなんてないということだ。わけがわからない。幽霊の正体見たり枯れ尾花ということなのか?

この思考のフレームを解析して自分にインストールすればきっともっと楽になるはずだ。一生かけて取り組んでいきたい事業である。

そうだ、自分の力では何も達成してないのに今から呑気に喜んでなんかいられるか。

そもそもおめでとうとはなんだろう。おめでとうと言われて嬉しかったことは受験や免許に合格したときくらいのものだ。

特定の日をもって年が明けましたことを祝うなら、毎日祝うのが筋だろう。地球の自転も公転もそれ自体は等価だ。

特定の契約の締結を祝うなら、借金の約束だってもしかすると祝われたってよいはずだ。

節目だとかけじめだとか、複雑なシステムは考えるほどによくわからない。

周囲にはよくわからない祝いの言葉より励ましの言葉をかけてくれと頼んでみるのも一つの手だ。

トラブル転じて点稼ぎ

事務所の近くで事故があった。わたしは怖いから遠巻きに見て見ぬふりでやり過ごそうと思ったのだが、他のメンバーががっつり助けに行ったので、渋々と、ワンピースでいうとウソップくらいのテンションでわたしも人助けに一枚噛むことになってしまった。トホホ。

 

幸い、重篤な怪我人は出ずに済んだのだが、車両の被害が著しく、あわや炎上となるところであった。

そういう状況で、人助けに走れる人はすごいなあと思うのだが、今回いの一番に走ったのは普段から多動気味でわりと非定型発達グレーゾーンだなぁと思って見ていた人だったので、臆病な自分とその人を比べて自己卑下することに意味はないのかなと思った。

わたしはわたしが気付いたことをやればいいやと、自己当事者たちに上着をかけたり温かい飲み物を配ったり、所謂「女性的」なケアに徹したのだが、まあ、それでいいや。わたしの中の女子と少し和解した。

 

さて、公共工事では地域貢献という評価項目がある。顧客評価を稼ぐという意味で今回の人助けはかなり好印象だろうということで、早速ぽんち絵にまとめ、仲間の武勇を報告書にまとめた。

俯瞰で見ていたからこそ、こういう報告書の文言がすらすら出てくるもので、それもわたしの役割の一つだと思った。因みに、ちゃっかり状況写真を撮っていたのは、件の走り出しっぺの人だった。彼はやはりどこか頭のネジがとんでいる。

 

そういえばむかし、仕事上のトラブル発生時、当時の上司に言われたのは「なんでお前はそんな冷静なんだ」ということだったが、出来事とそれを見ている自分とが切り離されるような感覚がしばしばある。「何でも他人事のように話す」とも言われた。虐待サバイバーの解離症状ですと説明すればそうなんだけれど、負の遺産とはいえ、これは業務上とても役に立つので結構気に入っている。虐待のサバイブ能力と仕事上のスキルはわりと近いものがあってやりきれない。

 

それにしても、事故を起こしてしまった方が茫然自失で青白く固まっていたのが、目に焼き付いて気分が悪い。多くの人にとって加害者であることはとても辛いことなのだ。

しかし、多かれ少なかれ、故意でも過失でもわたしたちが誰かに何かに害を及ぼさず生きるのは非常に困難である。

その加害性に自覚的なぶん、わたしは善人よりは偽悪的な人物の方がまだ安心する。

最近のインターネットは無敵の善人が多すぎて窮屈だ。

暮らす力がありあまる

故あってレオパレスに4ヶ月暮らすことになった。只今、3週目。

レオパレスは4年ぶり2度目なのだが、前回は短期間ということもあり、かなりミニマルな暮らしをしていた。まず調理はしない前提で道具を持って行かなかった。DVDプレイヤーやお気に入りの装飾品もいっさい持たず、ほぼ洋服と洗面用具のみをダンボール2箱に詰め、極めて身軽な生活を送った。

その結果何が起こったかというと、激しく苦しいホームシックである。

やはり、食と住を蔑ろにしては、人間らしい生活はできないのだ。

 

前回の反省を生かし、沢山のダンボールにぎゅうぎゅう詰め込んだ名画の絵ハガキコレクション、猫のぬいぐるみ、羽毛のクッション、ラッセルホブスの電気ケトル、マリクレールのホーロー鍋、しゃべるロボット掃除機、PerfumeのライブDVD、無印良品のアロマディフューザー。それらが無くてもわたしは息をして脈をうって生きていけるけど、屋根と壁があればそれを家と呼ぶならば、わたしの仕事も生活もどんなに味気ないものになってしまうだろう。医者の不養生とはいうけれど、ものづくりをする人間が自分の身の回りのものに無頓着ではつまらない。

 

配線を隠すためのモールを壁に貼りながら、フローリングの廊下にタイルカーペットを敷きながら、そんなことを考えた。

ピカソの大きな顔、シャガールのパリの花嫁、モネのバラ色のボート、東山魁夷の白い馬、ダリの焼いたベーコン、あと3ヶ月半よろしくね。

雨が降ったら寝てしまう

土砂降りの幕を下ろして、夏はおもむろに終演をむかえた。カーテンコールも無しに。

 

これから一枚ずつ身に纏う布を増やしながら、雪が降るまでの時期を縮こまって過ごすのがこの街での作法だ。おびただしいほどの収穫物を欲望のまま貪り、脂肪をたっぷり蓄えるのも忘れてはならない。

 

 キリギリスの声が呼んだ雨が降るたび空の色も街の装いも黄味を増し、今年の夏は何したっけか?なんて隣人と話しながら出来なかった色々に溜め息をつく。

キャンプも釣りも線香花火も、まだまだ足りない。宿題も絵日記も自由研究も終わらないまま大人になってしまった。

目をつぶったら、雨の音が全部かき消してくれる。今日はもう寝てしまおう。

明日目を覚ませば正しい自分になっている可能性だって、ゼロじゃない。

年に一度のお楽しみ

年に一度、3日間だけ、最高の贅沢をする。

野外フェスに行くのだ。

 

経済的にも精神的にも大人の女友達と連れだって、思い思いに音楽とキャンプとお酒を楽しむ。

暑くなれば木陰で休み、雨が降ればカッパをかぶる。雲の流れや星の瞬きを見上げ、虫たちの声に耳をすます。

美味しいご飯をお腹いっぱい食べ、足が棒になるまで歩き、腕がちぎれるほど手を振り、声が枯れるまで歓声を上げる。

ここでは何一つ我慢しなくていい。

太陽と月が追いかけっこをしながら、夢の様な時間が流れる。

 

パンクのスターは愛と平和を語り、ファンクの職人は命のこもった1音を鳴らし、テクノのDJは人を踊らす魔法をつかい、ポップのアイドルは狂信者を増やす。わたしたちはただ彼らの言葉に感動し、ハーモニーに涙を流し、ビートに身を委ね、魅力に溺れていればよい。

ただの生き物になるだけだ。

 

音楽のない人生を牛肉なしのスキヤキに例えたちょっと怖そうなおじさんがいたけれど、豚肉や鶏肉のスキヤキだってそりゃああるさ。

でも、わたしはどちらかといえば、年に一度、こってこてに霜が降った牛すきが食べたいのさ。出来れば辛口のお酒と一緒にね。

いやな事件は見たくない

いやな事件がテレビを賑わせ、色んな人が色んなことを言っている。

 

わたしは弱い人を踏み台にして生きていることに多少の罪悪感を持っている。いやな仕事を他人に押しつけて見ないふりをすることだってあるし、好きな仕事だけをして楽して生きている申し訳なさを感じることもしばしばある。強者の罪悪感だ。

 

一方、精神疾患にかかりやすく、同年代の平均よりは多く健康保険のお世話になっている。いつ働けなくなるかわからない不安を抱える弱者でもある。

 

わたしは被害者にもなるし、加害者にもなりうる。ハリネズミのジレンマを抱えながら、恐る恐る人と関わっている。ごく親しい人以外とは相手の性格や生活背景などに配慮し、共感ベースのやりとりを心掛けている。相手ありきだ。どうしても共感できない人からは、へんに好かれないようにしながらそっと離れる。それができるように、わたしは様々なしがらみから身軽である必要がある。それは身分の不安定さとトレードオフだ。

 

つまり安全な場所から、一人ひとり違う他人にむけて、特定の立場で何かを言う資格がない。

テレビもネットも新聞も今は見たくない。

 

わたしは刺されないように強く生き、刺してしまわないように優しくありたい。自由でありたい。そうじゃない人の責任は取れない。

それだけなんだよ。